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●日本の歴史を振り返り● 第10回 栃木県

武生

 

育英センターのA氏です。

 

今回は栃木エリアの偉人、田中 正造[たなか しょうぞう]を取り上げます。

 

田中 正造

・生誕年1841年(江戸末期)、死没年1913年(大正初期)

・栃木県県会議員・同議長

・第1回総選挙で衆議院議員に選出。立憲改進党、進歩党、憲政本党などで活動。

 

 

この名前にピンと来ない人もいるかもしれませんが、社会の教科書や歴史の教科書で上の肖像を見たことがあるはずです。

 

 

今から100年以上前の19世紀後半に栃木と群馬の県境付近に位置する足尾銅山で鉱毒事件が起きました。

 

足尾銅山精錬所の鉱毒が渡良瀬川[わたらせがわ]流域(主に群馬・栃木)の農民・漁民に深刻な被害を与え、社会問題化したのです。

 

政府はこの問題と向き合おうとせず、武力まで用いて被害農民を弾圧することさえありました。

 

 

この事件で、政府に対して声を上げ、被害者側の指導者として活動したのが現在の栃木県にあたる地域で生まれた田中正造でした。

 

田中は日本で最初に公害問題に取り組んだことで知られ、当時世界で当たり前とされてきた「植民地拡大のための『殖産興国[しょくさんこうぎょう]』に必要な大規模な鉱山開発」に異を唱えたのです。

 

自然環境を守ろうという社会全体の意識が現代と比べて格段に低く、また軍国主義に支配されていた当時の日本で、地域の人々のために国と戦った彼が味わった辛さは想像を絶するものだったと思います。

 

 

田中は最終的に明治天皇へ直訴[じきそ]し、自らの考えを明治天皇に直接伝えようとしました。

 

当時、天皇への直訴は、すなわち死罪になることを意味しました。

 

結局、田中は警官に取り押さえられ、直訴は失敗して死罪にはなりませんでした。

 

直訴の失敗後も田中は活動をやめず、被害地域に住んで農民とともに闘ったそうです。

 

 

環境問題は現代においても未だ解決していません。

 

2022年の今を生きる人は皆、私も含めて、田中正造と当時の社会について自らより深く学ぶべきだと思う今日この頃です・・・。

 

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