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日本の歴史を振り返り 第6回 宮城編

武生

 

 

 

こんにちは、育英センター武生校のA氏です。

 

 

さて、今回取り上げるのは宮城エリア出身の偉人。

 

宮城エリアの偉人と言われると「碧眼の戦国大名」を思い浮かべる方が多いと思いますが、今回はその大名の家臣としてヨーロッパを訪問した「支倉 常長(はせくら つねなが)」について少し掘り下げてみたいと考えています。

 

彼ほど時代の波に翻弄された生涯を送った人物は、なかなかいないのではないでしょうか。

 

 

日本でスペイン船が座礁したことをきっかけとして、支倉はスペインとローマへの訪問を命じられ、180人もの人間と共に海を渡りました。

 

 

支倉がヨーロッパへ向かったのは江戸時代初期の1610年代。

 

皆さんがご存知の通り、江戸時代初期の日本はキリスト教国との関係を制限する「鎖国」と呼ばれた状態に向かっていくのですが、支倉はそんな時代にヨーロッパに向かったのです。

 

支倉の訪欧の主な目的は日本とスペインとの通商交渉だったとされていますが、実際にはよく分かっていません。

 

支倉が日本を出発したころは日本と諸外国との通商や交流はまだまだ盛んでしたが、彼がローマに到達するころには日本ではキリスト教徒に対する弾圧が始まっていました。

 

つまり、支倉がスペインとの交渉に成功していたとしても、日本では何もできない状況になってしまっていたのです。

 

しかもスペイン訪問の際に支倉はキリシタンの洗礼を受けていたために、日本に無事に帰国できるかどうかも分からない状態でした。

 

日本を出発してから7年後の1620年に日本に帰ってきた支倉は、その後、活躍の場を与えられることなく帰国後わずか2年で亡くなりました。

 

 

明治の「文明開化」よりも遥か以前に、すでにヨーロッパ現地でその先進的な社会を実際に体験していた日本人がいたことにビックリしませんか。

 

一度、支倉常長について調べてみるのも良いのではないかと思う、今日この頃です・・・。

 

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